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こんかる第1号 ポスト作曲時代(1):塩田千春作品を聴く

本コラムは、『こんかるジャーナル』に掲載された記事です。

 ベルリンを拠点とする現代美術家・塩田千春の過去最大規模の個展「塩田千春展:魂がふるえる」が2019年に森美術館(東京)で開催された。世界各地で個展を行い、2015年のヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展で日本代表に選出された塩田の作品は、〈生〉と〈死〉の意味合いを問いかけ、〈存在〉といった普遍的な概念を追究し続けることで知られている。ここで筆者はある作品と出会い、〈芸術家の意図〉と〈鑑賞者の解釈〉のどちらに芸術的価値の比重を置くべきかという答えのない問いの中に放り込まれた。

 

 展覧会では、〈記憶〉にまつわる作品が多く見られた。東西統一後のベルリンで収集したという230枚の窓枠を用い、見知らぬ人々が多様な形でそこに残していった〈記憶〉に眼差しを向ける作品。また、再発した癌の手術と抗がん剤治療を受けた自身の経験から創造された、極度にパーソナルな〈記憶〉から生み出された別の作品も極めて印象的であった。蝟集する作品群を多く潜り抜けた後、最後の展示スペースに《集積―目的地を求めて》が現れるのだが、こちらが上記の問いを自分の中に植え付けた作品である。

 

 当作品は、ベルリンの蚤の市で集めたとされる440個の使用済みスーツケースが天井の高い位置から赤いロープで吊るされていた。多様な素材や寸法の、年季が入ったスーツケースは、辛うじて床に接触しない程の低い位置まで吊り下げられたものから始まり、緩やかに蛇行する川のように、鑑賞者の頭上にまで伸展し、モーターの動きにより振動し続けていた。筆者の隣にいた鑑賞者は、浮遊する物体をスマートフォンで写真に収めながら、各々の物体が背負う壮大な〈記憶〉が感じられる作品であると、同伴者に感想を熱く語っていた。

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塩田千春《集積―目的地を求めて》2019

 では、視覚的・概念的な観察を少し横に置いておくとし、作品の〈音〉に耳を傾けてみよう。見過ごされがちだが、《集積―目的地を求めて》には3層の音響的素材が存在する。(1)415Hz(G#)周辺の周波数帯域で鳴り続ける、温もりのないモーター音、(2)スーツケースのボディや蝶番が擦れ合い、ぶつかり合う音、そして(3)空間のサウンドスケープ(当展覧会では、鑑賞者の話し声や靴音、また、別の展示作品から漏出した音の混成)である。筆者には、たまたま隣に立っていた鑑賞者の作品への解説はありきたりの言説であり、あまり心に響かなかったものの、空のスーツケース同士の接触音に、絶望的な虚しさを覚えた。

 

 サウンドスケープ・デザイナーの明土真也は、「音は記号であり、様々な事物を示し、種々の事象を誘引する」と、『音の記号性という観点からのサウンドスケープ・デザイン』(2010)で述べている通り、当作品では、使命を遂げた空のスーツケースが重なり合う音が、「何事にも終わりがある」といった不都合な現実のシンボルとして機能しているのではないだろうか。

 

 塩田は《ウォール》などの映像作品や、《時間の交錯》などの、黒や赤の糸を毛細血管のように張り巡らせた大型インスタレーションなどが世界的に高く評価されているが、〈音〉を作品の枢要とする美術家としては知られていない。幼少期の記憶から制作したとされる《静けさの中で》では焼け焦げたグランドピアノから黒毛糸が、まるで可視化された音楽的体験の様に立ち昇ってゆき、観客席に見立てた黒焦げの椅子を覆い尽くす様相を表現しているが、この作品に至っても物理的な〈音〉を用いている訳ではない。現代音楽の作曲家やパフォーマーとのコラボレーションも見られたものの、それはあくまでもコラボレーションの範疇であり、塩田自身はサウンド・アーティストとしては認識されていない。

 

 こうした様相の中、《集積―目的地を求めて》をサウンドアートとして解釈することが正しいのかは解らない。東京造形大学特任教授の沖啓介は「サウンドアート」の定義を「サウンドが表現の主体となったアートで、様々な目的、文脈で『音』が使用される領域越境的な表現方法」と『美術手帖ART WIKI』に記しているが、「サウンド」が当作品の「表現の主体」として使われているという明確な根拠は存在しない。しかし、当作品は、聴覚的・視覚的な両観点の提示無くしては成立し得ないことも確かである。〈音〉を抜きにしては、鑑賞者にスーツケースが中身のない単なる〈殻〉であることを伝える術がないのだ。筆者は、不揃いのスーツケースが大挙して上界へ立ち昇る視覚的演出と、(作者の意図的な演出かはさておき)各々の「殻」が無機質にぶつかり合う音の記号性が活かされている当作品を、サウンドアートとして体験した。

 

 〈音〉作品としての解釈が一般的でない作品であるとしても、その〈音〉に傾注することにより、それが抱く機能や記号性が見えることがある。上記の通り、筆者には塩田が《集積―目的地を求めて》をサウンドアートと見做し、上述した3層の音響的素材を作為的に用いたかは定かではない。しかし、表現者の原初的欲動は、意図された描写だけに留まることは有り得ず、思いも寄らない箇所から滲み出る。芸術を芸術たらしめているのは、表現者の意図的な素材の提示だけでなく、それを眺め、耳を傾け、表現者の無意識に宿る論意を読み取る人間の視点である。

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