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現代音楽の中の笙(4):自由即興と「エキゾチックな音楽表現」

本コラムは、雅楽協議会発行『雅楽だより第63号』に掲載された記事です。

  東京都内にある閑静な住宅街の一角にあるビルの地下室で、デンマークから来日中のバンドの自由即興を聴いたことがある。当時、私は大学2年生で、バンドメンバーの一人が私の通っていた大学に留学生として在籍していた関係でこのライブを知った。バンド名は思い出せないが、編成は笙、サクソフォーン、エレクトロニクス、そしてドラムスだった。笙は、最高音である「千」(F#6)の竹のみを抑制的に通奏する間、他の三人の即興演奏者は驚異的な集中力で互いの音を聴き合い、多角的な音色やイントネーションを流れの中で使い分けながら、自由な演奏を楽しんでいた。彼らは楽器の伝統や従来の奏法を乱暴に破壊しつつも、「壊す行為から生み出される新たな価値」の哲学に真正面から挑んでおり、「上品な暴力」としか表現することのできない、極めて高尚で洗練された音響的空間が創出されていた。公演後、打ち上げで意気投合し、借り物だというドラムセットを素手で運ぶ彼らを手伝うため、終電間近の山手線の満員電車にスネアドラムとハイハットを抱えて乗車したのは、今となっては良い思い出だ。

  即興演奏とは、楽譜に頼らず、即座に創作をしながら音楽を自由に演奏する行為である。英語ではインプロビゼーション(improvisation)と言い、語源はラテン語の否定語である“in”と、「予見する」を指す“provisus”の組み合わせだ。一般的には、ある一定の枠組の中で即興的に演奏する行為を「即興演奏」と定義し、規則や枠組を可能な限り排除した上で即興的に演奏する行為を「自由即興」と呼ぶが、ジャンルや奏者によって、言葉のイメージが大きく異なる為、境界線を引くのは難解だ。

  文字や記譜法の存在しない時代から、人類は「音」を奏でていた。よって、即興演奏の始まりは、音楽の始まりとも言える。中世ヨーロッパやルネサンス期の音楽でも、事前に確立された不完全な枠組に音を付け足す形での即興演奏が行われていた。頑なに型が固守されているように感じられる古典派音楽も、W.A.モーツァルト(1756-1791)やL.v.ベートーヴェン(1770-1827)など、この時代の著名な音楽家は即興演奏の巧者であったとされている。今日においても、総譜の中に書き入れられていないカデンツァを即興演奏する奏者は多く存在する。西洋芸術音楽の潮流の一つでもある実験音楽の多くも即興演奏だ。大抵、笙の自由即興は、この文脈で聴くことが多いのではないだろうか。

  「非音楽の芸術」として生み出されたノイズ・ミュージックには、作曲の技法に重点が全く置かれておらず、演奏に楽譜を必要としない場合が殆どである。ノイズ・ミュージックは1913年、イタリア未来派のルイージ・ルッソロ(1885-1947)の論文『騒音芸術(L'arte dei rumori)』によって初めて理論化されたと考えられている。産業革命が生み出した鉄道や工作機械など、機械の発明によって生まれた新たな騒音の支配に着目し、そこに「ダイナミズム」と「カタルシス」を見いだしたのがルッソロであった。現在、ベルリンやニューヨークなどの、ひっそりと、しかし敢然として進化を続けるアンダーグラウンド文化が、ノイズ・ミュージックの中心地である他、暴力温泉芸者やメルツバウに代表される、日本の「ジャパノイズ」も、欧米を中心に高く評価されている。

  ジャズにおける即興演奏は、原曲のコード進行や、32小節を1コーラスと考える枠組の中で即興的なソロが奏でられる場合が多い。一方で、1960年代にオーネット・コールマン(1930-2015)らが生み出した、音階や律動、コードから解放され、前衛的かつ制約の少ない自由即興を「フリージャズ」と呼ぶ。これは、西洋音楽の特色であるハーモニーや音階といった理論や様式の束縛からの「離脱」を意味し、黒人としての美意識や、抵抗の表現を解き放ったものである。

  即興表現は音楽だけでなく、ダンスや朗読においても広く浸透しており、筆者も異なる芸術分野で活躍する表現者たちと幾度かの共演において、笙における新奇なる表現方法の発掘を目指してきた。即興ベースの身体パフォーマンスを中心に、モーション・キャプチャ・テクノロジーやヘア・アートなど、様々なジャンルに挑み続ける村上葉子氏は、ダンサーという範疇ではとても捉えきれない。「初めて笙の生演奏で即興的に踊った時、どこか遠くから呼ばれている感覚がありました。その後、どんどん深いところに沈んでいくような、奥行きのある音体験でした」と、音楽家ではない即興表現者から見た笙について、貴重な見解をもらった。「笙の『ドローンのような持続音』が時間の感覚を歪ませている感じで、私の想像力を掻き立ててくれます。難しい点というか、まあ良いチャレンジなのは、笙の演奏でドラマを作り出すことが困難なので、動き手である自分の中でイメージを盛り上げて展開をつけることですかね。あと、笙は定期的に楽器を温める必要があるので、長時間のパフォーマンスは難しいですよね」

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村上葉子氏(左)と筆者(2018年4月撮影)

  ムーヴメント・アーティストを自認する村上氏は、米ニューヨーク在住。パフォーマンスはステージ上ではなく、美容院や帽子工房など、コンセプトに沿った場所で行い、公演時はいつも大勢の多様な人たちが訪れる。「まず自分のいる『今』に100%身を任せ、目を開き、耳を開くことから始まる」。彼女はそう口にしたあと、次のように語り始めた。「どういうエネルギーが流れているか、どういう空間デザインであるか、どういう自然・人工的な音があるか。土砂降りの雨に打たれてるかもしれないし、灼熱の太陽に焼かれているかもしれない。体調が悪くて体が重いかもしれない。全てを受け入れて、そこから自分の動きや、カラダの存在で何をその場に生み出せるか。まず自分を『今』と一体化させてから徐々に問いかけや衝突や混乱や感情的な爆発の表現を試みる。内側から生まれてくるものと周りとのバランスをとったり崩したり。笙の音と自然の音がどう交わって動きを感化してくれるのかに興味があるので、いつの日か、どこか大自然の中で、笙との即興パフォーマンスができたらと思っています」

  慧眼である読者はお気づきかも知れないが、ここまで西洋的眼差しのみを用いながら、即興音楽の定義付けを試みてきた。「即興性はイランやインドの古典音楽、スペインのフラメンコにもあるし、掛唄、古くは 連歌や歌垣など、日本の歌文化にもありました。『即興音楽』というジャンルは、西洋音楽の歴史から見た考え方なんですよ」。そう話してくれたのは、即興音楽にも取り組む音楽家の臼井淳一氏だ。

  「笙(雅楽)は2007年ごろから学び始めました。雅楽の笙は、複数のフリーリードから鳴る複数の音を、膨張や収縮をさせるように演奏するのに特化している楽器で、今日のポピュラー音楽とは異なる美学を持ったこの楽器を、即興に持っていくとどうなるのだろう、というのが僕の関心事です」と臼井氏は言う。笙の即興的表現に精力的に取り組んできた臼井氏とは何度か、東京のライブハウスで共演させてもらったことがある。飄々とした彼の立ち振る舞いを映し出すかのように、彼の即興演奏も、「音楽という遊び」に明け暮れている印象であった。世界のあらゆる国や地域でライブに参加し、現地のミュージシャンと共演してきた体験が自らの音にも刻み込まれている為か、臼井氏の音は、日本の雅楽的感性と、広義における東南アジア的音楽文化の雑居性が垣間見えた。

  「笙を即興の場に持ってきて、日本の伝統的な音楽観の独創性を再認識できた気がします。音がふわっと鳴った時の質感を持続させていく笙の特性は、リズム、メロディー、ハーモニーからなるピアノやギターの音楽観とは全く違いますよね。西洋的な『即興演奏』だと、個の表現者がピアノやギターやドラムからの様々な音を駆使して、自分の表現世界というドラマを拡張していくのですが、対して笙だと、楽器の構造上、音程や音色や音量を大きく変えられないので、目に見えたドラマ性が出しづらいんです。そこを何とか乗り越えようとして、トリルや不協和音、プリペアド、エフェクターの使用など非伝統的な方法も試みたのですが、観客からは『音色が美しいですね』『神秘的ですね』など、伝統的な笙の演奏と変わらない評価が来てしまうんです」

  筆者も、アメリカやヨーロッパで笙の自由即興を行った際、楽器ばかりが注目され、肝心な音楽性を感じ取ってもらえないという葛藤を感じたことが幾度かある。また、「既存の音楽的諸価値の破壊からなる新たな芸術性の導入」を目論む西洋的な即興音楽文化とは相反する、「雅楽的」または「日本的」といった、伝統的で規範的な音楽のイメージが付き纏う。臼井氏も、「僕もニューヨークで行った笙の自由即興は、ヨガなどのメディテーション(瞑想)音楽のように受け取られていました」と笑いながら言う。「地域によって、人々の持つ笙への印象も随分と変わります。イタリアでは『極東からの神秘的な音のする楽器』、台湾だと『自分たちの笙より古典的で、古代にさかのぼる楽器』、マレーシアだと『サクラ、フジヤマ、サムライなどの日本文化を連想させる楽器』、インドネシアだと『その場を変容させるようなスピリチュアルなパワーの楽器』と、聞き手それぞれの日本へのイメージが、笙の音に投影されるようです」と聞かせてくれた。

  臼井氏は、東南アジアの笙への関心から、2017年よりベトナムへ移住した。テレビ会議アプリZOOMを使用してお話を伺った際、無数の東南アジアの笙が並べられ、玩具箱をひっくり返したような、躍然たる部屋の様子が画面に映し出された。現在は、アジアの笙のフィールドワークを重ねていると言い、床にあったベトナムの笙を手に取って即興で音を聴かせてくれた。そこには西洋的な即興音楽に見られる音楽伝統の破壊的使用はほとんど確認することはできなかったものの、西洋的ではない「実験的」な音楽行為の可能性を強く感じさせられた。

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臼井淳一氏とテレビ電話で行ったインタビュー風景(2020年8月撮影)

  我々が今日に「即興音楽」と認識するジャンルは、西洋芸術音楽の文脈から外れては存在し得ない。そしてそれは、西洋音楽史の中で築き上げられてきた音楽性の「破壊」を試みる思想を持つ一派も含む。一方で、笙の即興演奏は、国内外問わず、どうしても雅楽として受け止められてしまう事例が幾度となくある。それは、運動性が低く、音色に変化をもたらすのが困難な楽器の特質を差し引いても、私を含め、多くの笙の即興演奏家が「雅楽的」な表現方法を手放せていない現実がある。私は、雅楽的な時間性などを伝承した笙の即興演奏を感覚的に好む上、その時間性を掘り下げることに対して可能性を感じているので、一部即興音楽家の間で受け継がれる「破壊」から生み出される価値を追求する意向はない。しかし、「破壊」を即興音楽の核心だと考える音楽家は、フラッターツンゲやスターカットなど、雅楽では存在しない演奏技術だけを使い、音を奏でれば良いと思う。

  特定の音楽文化の伝承と進歩史観的な音楽認識に基づく即興か、既存の音楽的諸価値の「破壊」から新たな価値を生み出すことを目的とした即興か、はたまたそれ以外の、潜在的な表現形式の確立を試みるものかは、表現者自身に決定権が委ねられている。そしてその答えが「伝承」である場合、私を含むその即興演奏者は、良かれ悪しかれ、エドワード・サイードの提起するオリエンタリストなのかもしれない。そして、オリエンタリストであるという事実を認め、開き直らぬ限り、即興音楽的コンテクストで使われる笙は、西洋的視点の「エキゾチックな音楽表現」という罠から抜け出すことはないであろう。

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